こんにちは!ご覧いただきありがとうございます!
さむろぐ管理人の「おさむちゃん」です。

30代でフリーランスとなり、さむろぐの管理人とフリーランスとしてコンサルティングやライターなど様々な活動をしています。
これまで、高校を中退したり、裁判官を目指して挫折したり、色々なことがありました。
サラリーマン時代は、会社員として成果を出しながらも働いている人たちの現状を目の当たりにして、このまま自分だけが楽しくいきているだけではいけないんじゃないかと思ったのをきっかけに会社をやめることにしました。
僕の行きてきた人生を知ってもらうことで、自分にもできることがあると思って勇気付けられる人や共通する部分を知って親近感を持ってもらえる人がいたらいいなと思っています。
一般的な人生のレールには乗っていないタイプなので、人生のレールを踏み外してしまったと思っている人には何か参考になる部分があれば嬉しいです。
目次
生まれてから幼稚園まで
生まれたのは岩手県宮古市。
母の実家がある場所です。
4人兄弟の末っ子、四男としてこの世に生を受けました。
今度こそ女の子が産まれて欲しいという母の思いも虚しく、元気に男の僕が産まれてきてちょっと悲しかったとか。
生まれ育ったのは兵庫県姫路市。
あの世界文化遺産の姫路城がある街です。
その影響か、今でもお城が大好き。
記憶があるのは保育園からです。
保育園は祖母の影響で公立ではなく私立の保育園へ通っていました。
幼稚園のバスを一人で待っている時にバスが全然来なくて不安で泣いてしまったことがありました。
すごくさみしがり屋。
みんなでカルタをやった時には、悪さをしている子に後ろから飛び蹴りをしたり、正義感の強さとともにちょっと手が出るのが早いところもありました。
でも、それくらい曲がった事が大嫌い。正義感の強さはこの頃からあんまり変わらないです。
保育園の発表会の日に熱が出て、熱があるのに保育園へ行ったこともありました。
アンパンマンの格好をして一番真ん中でお遊戯。
占いなどで性格診断をしてもらうと目立つことをするのが好きな性質とよく言われます。
幼稚園では最初はとても緊張。
だって私立に行ってたのは僕だけなので知らない子だらけ。
隣に座っていた村上さんのことが好きでした。
男兄弟で育ったからか女子に不慣れで、女子を意識したのはこの頃からでした。
この頃は、おばあちゃんに毎日迎えにきてもらって、毎日100円握りしめて駄菓子屋さんに行っていました。
100円で何を買うか、毎日色々計算しながら買うのがとても楽しかったです。
幼稚園で誕生日に将来の夢を書くノートがあったけど、何を書くかすごく悩みました。
この頃から将来の夢なんて特になかった。
そういう意味ではすごく冷めた目で世界を見ていた一面もありました。
デパートで欲しいものをねだって泣き叫ぶ子供を上から目線で見て呆れたり。
あんまり子供らしい子供ではなかったです。
小学校から中学校まで
小学生の1〜2年生はただのお調子者キャラ。
授業中に先生が黒板に何かを書いている時によくみんなを笑わせていました。
ちなみにこの時好きだったのは、最初に隣の席だったかねだあゆみちゃん。
基本的に近い距離にいるとすぐに好きになっていました。
宿題を全然やらない子供でよく居残りをさせられていました。
宿題をして来ないもんだから、九九を覚えるのはクラスで1、2番目に遅かったです。
そして、目の前にあるものは全て食べるという精神のもとブクブクと太っていきました。
3年生になるとクラス替えがあって人見知りの性格を発揮。
クラスの大半が知り合い同士というバランスの悪さでなかなかクラスの中に溶け込めませんでした。
よく遊んでたのはクラスの2、3人くらい。
この時は本当に大変でした。
まだどうやって人と打ち明けていったらいいのかなんて全然わからなかったです。
小学3年生の頃に転校。
きっかけは親の離婚でした。
別のところに付き合っている女性がいて。
というか、すでに子供もいたりしてかなり大変な状況だったようです。
まだ子供だったので詳しいことまではわからなかったけど、僕は母に引き取られて引っ越しました。
転校先では転校の手続きを何もしていなかったので先生が大慌て。
でもこの時はいいクラスに巡り会えてすぐにクラスに馴染めました。
この時くらいからかな。
実は意外と勉強ができるタイプだと気づきました。
九九を覚えるのはあんなに遅かったのに。
暗記するのが嫌いというのは今でも一緒です。
小学4年からクラブ活動というのが週に1回。
この頃流行ったスラムダンクに漏れなく感化され、バスケ部入部を志願。
競合ひしめく中、圧倒的なじゃんけんの強さで入部を勝ち取りました。
5年生の頃、母が胃潰瘍で緊急入院。
ずっと胃の調子が悪く胃薬を常用してごまかしながら働き続けていましたが、それが裏目に出た形で気づいた頃にはほぼ末期。
胃をほぼ全摘出することになりました。
そんなことになるまで必死に働き続けてくれていた母には今でも感謝しかありません。
幸い、胃を摘出した後は1ヶ月ほど入院したのちに退院。
一度に食べれる量が減ったり、刺激の強いものは食べれないなどの制限はかかりましたが、薬の力を借りながら普通に生活ができるようになりました。
今でも元気に過ごしています。
まだまだ親孝行し足りない。
6年生の時、卒業間近に担任の先生から呼び出されたことがありました。
「お前は人を惹きつけて引っ張っていく力がある。中学へ行ってもそういうことをやっていって欲しい。」
今でもその自覚はないけれど、人のサポートをすることは適性があるように思います。
その一つがコンサルティングという形になりました。
中学生時代
成績は上の中くらい。
180人中20〜30番目。
バスケ部がなかったので、友達とソフトテニス部に入部。
全然面白くなくてすぐに行かなくなり、退部。
この頃、極楽とんぼの山本圭一に似ていると学校中の噂になり、先輩からもやまもっさんと呼ばれ、やたらと優しくされました。
ゲームが大好きで、友達と家でゲーム三昧。
いただきストリート、桃太郎電鉄、ウイニングイレブンなど、みんなで遊べるゲームをよくやっていました。
RPGはFF派。ドラクエもやったけどFFの方がシリーズ通してやっている気がします。
好きなアイドルはモー娘。のなっちでした。
英語がすごく苦手で、気づいたら全然わからなくなっていて、泣く泣く塾へ通うことに。
中学2年の夏から塾へ通い始め、そこでBe動詞から学び直すレベルでしたが、勉強は得意だったので苦労の末、偏差値60くらいまで上がりました。
中2の秋か冬頃から、学校が本当につまらなくて、学校へ行かなくなりました。
なんとなく話を合わせて面白くない話をしているのが本当に意味がわからなくて。
意味がわからないことをしていることが苦痛すぎて、そこから中学3年になるまでずっと引きこもり生活をしていました。
中3ではなんとか僕を学校へ来させたいと僕が引きこもり中も遊んでいたメンバーを同じクラスにしてくれたり、いい区切りにもなったのでまた登校を再開。
提出物の提出率が悪かったり、よく私語をして授業態度が悪かったけど内申点は平均程度。
先生曰く、普段のテストの成績でカバーしていたのでもったいない状況だったそうです。
でも、そんなことより毎日楽しく生きることの方がずっと大切でした。
高校から大学まで
ここが結構長いです。
普通は7年ですよね。
僕、12年です。
高校生時代 パート1
ここまで読んでいただいていればわかるように母の力でなんとか生活させてもらっている状況なので、やりたいことも特にないし高校卒業したら働こうと思い工業高校へ進学。
クラス全員男子。
「先生、うんこ行ってきます」と堂々と言える教室でした。
毎週実習があって、座学が嫌いな子にはいい環境でした。
ただ、特に工業系に興味はない。
勉強は本当につまらなかったです。
高校生といえば、思春期真っ只中。
モテたい願望MAXの僕は高一の夏休みに髪を染め、眉毛を抜き、一気にモテ男を目指しました。
でも校則が厳しいから夏休みの終わりに黒染め。
結果、
眉毛を抜くのは校則違反
髪が完全に黒くなっていないのは校則違反
髪の長さが校則違反(もみあげが耳の中央の出っ張りまでという謎の校則がありました)
校則違反3つで居残り。
その後も、髪の長さと眉毛を度々注意され続け、最終的には、毎日居残りして廊下を端から端までモップ掛けさせられるという罰を与えられる始末。
納得できないことにはなかなか従えないという性格でした。
高校2年生の時に転機が訪れます。
やっぱりこのまま就職するのは嫌だな。と思い始めます。
全然、やりたいと思うことはないし。
ほぼ男子校で彼女もできないし。
思い切って、高校2年生の夏に退学を決意。
また一から高校に入り直すことを決めました。
一度決めたら曲げない性格。
誰に何を言われようともこの決意は変わりませんでした。
高校時代 パート2
高校をやめてからはガソリンスタンドのバイトをしながらもう一度受験勉強。
普通の受験生と同様に高校受験をし、今度は普通の進学校へ入学しました。
ここで念願の初彼女。
2年くらい付き合いました。
高校1年の時は成績はずっと学年一番。
ゆるい感じなのになんで成績がいいんだ、と学校の七不思議的な感じになっていました。
今度こそこのまま高校を卒業する。
そして、大学へ行こう。
困っている人を助けたいから心理カウンセラーとかいいんじゃないか。
そんな風に思っていました。
でも、またも高校を中退。
そのきっかけはふたつ。
ひとつは先生の言っていることが理解できなかったこと。
自分の考えを曲げないと学校へいれない状態だったので、それなら学校をやめると思ったことでした。
そのきっかけは当時の彼女と同棲していたこと。
彼女が家にいるのがあまりにも苦痛で苦しんでいたから連れ出してあげようと思ったんです。
でも、それが学校にバレて謹慎処分。
今、冷静に考えれば先生の言い分は正しいですが、その時の僕にはそんなことわかりませんでした。
自分の大切な人が苦しんでいるのにそれを助けて何が悪いんだ。そう思っていました。
もうひとつは、母がバスを待っている時に、精神に異常をきたしている人から傘でボコボコに殴られるという事件があったこと。
突然の知らせに訳がわからなくてパニックになりました。
病院へ行くと母は意識があってなんとか動ける状態であったことは唯一の救いでした。
結局、その加害者は精神状態の問題から心神喪失状態という認定で罪にはならず。
その時、警察官から言われた一言は今でもよく覚えています。
「今回は仕方ないですね。もし、他にそういう事件を見かけたら協力してくださいね。」
全く意味がわかりませんでした。
罪に問えない理由を説明してくれるならまだしも、他の事件の時は協力してくれと。
今、そんなことが関係あるのか。
それが被害者に向けてかける言葉なのかと。
不安、怒り、戸惑い。言葉にできない感情がうごめいていました。
その時、そういう刑法の仕組みがよくわからなかったこと、犯罪被害者の家族となったことで法律というものに興味を持ち始めました。
重症ではなかったものの母はすぐに働ける状態でもなく、とても精神的に不安な日々を過ごすことになりました。
母がこんな状態で自分が普通に学校に行っていることが本当にいいことなのかもよくわからなくなり、そんなときに訪れた謹慎処分。
この二つがきっかけで僕はまたもや学校をやめる決断をしたのです。
当時、マクドナルドでバイトをしていたのでどんどんとバイトへのめり込んでいきました。
みんなで目標を持って働く。
売り上げ記録を更新する。
廃棄率を下げる。
終わったらみんなで遊ぶ。
それがとても楽しかった。
高校時代 パート3
そうやってバイトをしながら次の高校へ。
次は通信制の高校にしました。
もうこれ以上、普通に通学してられない。
自分のわがままでやらせてもらっているから学費は全部自分で出す。
そうやって自分で全部用意して責任を持つ代わりに自由にさせてもらっていました。
バイトではマネージャーになり、責任が増えたぶんできることも増え、バイトメンバーを束ねてみんなで協力して結果を出すということを徹底的にやりました。
大会では賞をいただいたり、お店の数字の改善にも貢献したり。
働いて行く上で大切なことはマクドナルドでたくさん教えてもらいました。
やる時は全力。働くときも遊ぶときも。
そんな人生の楽しみ方を見つけたのもこの時代での経験が大きいです。
母の事件も一つのきっかけとして、法律を学ぶことを決意し大学へと進みます。
短大時代
大学もそのまま通信制課程のある大学へ。
できるだけ実践的な内容重視で学びたいということもあり、経営系の短大→法学部へ編入学という形をとりました。
短大では経営に関すること一般を学びました。
プレゼン、簿記、会計学、経済学、経営学、法学一般などなど。
通信制といえども地方での通学講座で実際にいくつかのプレゼンをやったり事業計画を立てたりと、座学だけではない実践的な学びの機会を得られたのはとてもよかったです。
この時に簿記3級も取得しました。
この時にあった大きな出来事が自分の中でとても印象に残っています。
それがリーマンショック。
テレビの向こう側で解雇無効だと騒ぐ人々。
解雇になった時の悲しいエピソードが繰り広げられるテレビ番組。
でも、正直なところその人たちに同情はできませんでした。
その立場、自分に甘んじていたのはその人たちだろうと。
自分の力を高めてこなかったんだろうと。
それを見て、絶対に自分はこうはならない。
突然、世に放り出されても自分の力で生きていける人間になる。
強くそう思うきっけかとなった出来事でした。
だからいつかは独立、起業して生きてきたい。
会社で働くなら営業をしよう。
どこに行っても生きていけるように。
この時そう決意しました。
法学部時代
短大卒業と同時に法学を専攻するために中央大学法学部へ。
ここ、確か卒業率5%とか。卒業がかなり大変なことで有名でした。
なんとか3年で卒業。
みっちりバイトしながら、勉強もしながら、単位も取得。
この5年間は本当に大変でした。
学費のために年間100万円の貯金を目標にバイトしながら勉強も同時にこなした経験はとても大変だったけど今でもためになっています。
多少の無理は頑張ればできるということがよくわかった経験です。
通信制課程でも基本六法のほか、行政法、刑事政策、法哲学、労働法など、一般的な法学部生が学ぶものと同じだけの科目を学びました。
今も一般の人より少しは法律に詳しいです。六法の読み方も基本はわかっています。
この法律を学んだ3年間で僕が学んだのは法律学という単純なことではなく、客観的に物事をみることの大事さ、対立の解決方法、歴史から現代の物事を読み解く力など多岐に渡ります。
人としての根本は、法律学とマクドナルドの経験が築いてくれたといっても過言ではないです。
そんな学びを通して考え方も変化し、犯罪被害者の家族という立場から法律家という立場への思考に変化した結果、卒論は「触法精神障害者の責任能力」という加害者側の視点に立って書きました。
この頃、法曹(弁護士、裁判官、検察官)になるには司法試験合格の前に司法試験の受験資格を得ることが必要でした。
法科大学院を卒業するか、予備試験という試験を受けて合格するか。
そこで法科大学院をいくつか受験。
合格をいただいた学校もありました。
でも、その結果に僕は絶望しました。
- 全然手応えがない。
- 自信を持って答えられた気がしない。
裁判官は弁護士よりもさらに狭き門。
このまま法科大学院へ行っても裁判官になれる自信なんて微塵もありませんでした。
自分が目指していた裁判官への道をそれでも突き進むのか。
ここで諦めて就職するのか。
この状況では就職するという選択肢しかないと腹をくくりました。
この時すでに卒業年度の12月後半。
就活に残された時間はあと3ヶ月程度でした。
就職活動
12月も終わりを迎えようとする時からの就活です。
すでに就活は終わりへと向かっており、次の年度の就活へと社会も企業も動いていました。
残っている企業は本当に少ない状況。
でも、できるだけ実家のある関西圏で働きたい。
そこで数少ない企業から尼崎にある企業へエントリーシートを送りました。
この時すでに1月。
サービス付き高齢者向け住宅というものがあることをこの時初めて知りました。
- 介護が必要な高齢者へ介護をフルサービスで提供する。
- 高額な入居金がなくても入居できない高齢者の人が入居できる。
これだ!と思いました。
直接、人の役に立てる。その営業ができる。
説明会に参加してそのまま面接へ突入。
社長面接で「こんな時期から就活とは、ゆとりだなー」などとボロカスに言われながら面接は終了。
正直あれでは落ちたと思っていましたが、数日後、まさかの内定の通知がきました。
きっと面接の前の説明会での印象がよかったからだと勝手に思っています。
説明会時点ではかなり具体的に入社後のことについて質問をしていました。
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